第12話 カレーライスを食べよう 前編


 カレーの作り方。
 野菜と肉を適当な大きさに切る。肉を炒める。野菜を入れて水を入れ、適当な時間煮込む。火を止めてしばらくしてからルーを入れる。再び火を点け、しばらく煮込む。隠し味があればお好みで。出来上がったカレーをご飯にかけて終了。
 一人暮らしするなら、作れると便利な料理である。
「これで、準備完了っと。さて、作るかー」
 何度か頷きながら、俺はテーブルを見下ろした。
 テーブルの上には買い込んだ野菜と肉が置いてある。具材はシンプルにジャガイモ、ニンジン、タマネギ。肉は鳥肉である。カレールーが二箱。友人から借りた一気に十人前以上作れる大鍋と二升炊ける特大炊飯器。
 米は既に二升炊いている最中だ。
 今日カレーを作ると伝えてあるし、そのうち来るだろう。
 ガチャ。
 狙ったかのように、ドアが開く。
「お、来たか」
 いつものことだけど、せめてチャイムくらいは鳴らしてほしい。
 入ってきたのは狐の少女。癖の付いた狐色の髪の毛と、セーラ服と緑色のスカート、そして黒いオーバーニーソックス。いつもの格好と一言で片付けてしまえる。前々から疑問に思ってたんだけど、セーラー服以外の服装は持っていないんだろうか? 同じ服を何着も持っているとか……?
 それよりも、今回注目する部分はそこじゃない。
「どうした、お前……?」
 身体が細い。元々痩せ気味体格だったけど、今回はいつになく痩せていた。もっとはっきりと窶れている。頬もこけているし、全体的に生気が薄い。心持ち足元がふらつているようにも見えた。まるで、数日何も食べていないかのように。
 革靴を脱ぎ、スリッパを履き、よたよたと歩いてくるサキツネ。
 その様子に、俺は思わず尋ねる。
「ちゃんと食事してるか? 身体細くなってるぞ」
「断食一週間ッ」
 ぐっと親指を立てて、サキツネが言い切った。なぜか得意げに。黄色い目にはギラギラとした気合いの光が灯っている。グクゥと奇妙な音を立てる腹の虫。
「……あぉ、もう」
 言いようのない感情に、俺は額を押さえた。
 何でそんな無茶をしたかは、考えずとも分かる。しかし、何でそれを実行できるのかが分からない。前々から思ってたけど、食い物関係に掛ける情熱――というか、執念が尋常じゃないな……。何か幼少の頃にあったんだろうか?
「カレー食べるからって一週間も断食しなくてもいいと思うぞ。どうせ、普通に食べてても非常識な量食べられるんだから」
「無問題」
 腕組みをして、鼻息を吹く。
 本人が満足しているなら、いいかな? よくないだろ……。
「そんな空腹でカレー食べたら胃腸が拒否反応起こさないか?」
 空腹で胃腸の活動が低下している時に一気に食べ物を放り込むと、そのショックで嘔吐や下痢、腹痛などの症状を起こす。真夏の暑い中に長時間いた後に冷たい水などを一気飲みしても同様の症状が起こるので、気をつけましょう。
「だいじょーぶ!」
「本人がそう言うならいいけど」
 自身たっぷりに断言するサキツネに、俺は引き下がった。
 実際消化器系に加えて味覚嗅覚系の頑丈さは人外だ。デスソースだってそのまま飲んだし、シュールストレミングも蛆チーズも平気だった。調味料でも半分腐ってても普通に食べられるし、空腹にドカ食いくらいは何でもないだろう。
 そう結論づけ、俺は買い物袋から野菜や肉を取り出した。近所のスーパーで買ってきたもので、ごく普通の肉や野菜。
 と。
 サキツネがジャガイモを手に取っていた。おもむろに口を開け、
「生のまま食べるなよ」
「はッ!」
 大きく身体を跳ねさせるサキツネ。ぽろりと手からジャガイモが落ちる。皮も剥いてない生のジャガイモが、テーブルの上を少し転がって止まった。
 サキツネが自分の手とテーブルに転がったジャガイモを交互に見やり、
「無意識のうちに……!」
 黄色い目を大きく開いて驚いている。
 どうやらカレーライスを食べるまでは何も口にしないつもりらしい。しかし、空腹の身体が意識とは別に食べ物を求めて動いているようだった。無意識に食べ物を口に入れるというのは、いつものことだと思うけど。
 俺は静かに告げた。
「ニンジン食うな」
「くぁッ!」
 奇妙な声を上げ、サキツネが手に持っていたニンジンを落とす。テーブルに落ちて転がったニンジンが、さっきのジャガイモの隣に並ぶんだ。
 狐耳をぴんと立てつつ、自分の手を凝視している。
「まったく」
 放っておくのもマズいだろう。俺は買い物袋から取り出したチョコレートをサキツネの前に差し出した。おやつ用に買ってきた、箱入りのチョコレート。
「カレー出来るまでこれ食べてなさい」
 差し出されたチョコレートに右手を伸ばし。
 サキツネは左手で自分の腕を掴んだ。爪が食い込むほど力一杯。
「ぐぐ……」
 チョコレートを受け取ろうとしている右手を、必死で左手で繋ぎ止めている。右手の五指がチョコレートを求め蠢いていた。後押しする腹の虫の音。その右手を、サキツネは歯を食い縛り、脂汗を流しながら、必死に押さえ込んでいる。欲求と理性との狭間で激しく揺れるサキツネ――と表現すれば、少しは格好が付くだろうか?
 実際は奇妙な一人芝居だけど。
「おい、尻尾……」
 うねりと動いた尻尾がパック入りの鳥肉を掴んでいた。狐の尻尾ってもの掴めるほど器用じゃないはずだけど、サキツネが妖怪だか物の怪だか、そんな人外だから? でも使えるなら普段から使ってるだろうし、火事場の馬鹿力みたいなものだろう。
「ッ!」
 サキツネが後ろへと跳んだ。パック入りの鶏肉がテーブルに落ちる。
 窶れた身体のどこにそんな余力があったかと思うほどの勢いで跳び退く。二、三度、後ろに跳んでから、台所の隅に退避してその場にしゃがみ込んだ。
 背中を丸め、両手で狐耳を押さえつつ、尻尾をお腹の方へと回している。
「ぅぅぅ……」
 丸くなって震えているサキツネ。理性と食欲との激しい激突の末に、一時的な逃避という無難な選択肢を取ったのだろう。……か? 
 怯える様子は、ちょっと可愛いかもしれん。
 サキツネが涙目で俺を見てくる。追い詰められた声音で。
「理性が、残っているうちに……早く、カレーをッ!」
「はいはい」
 生返事をしつつ、俺は肉と野菜を持って流しへと向かった。水を入れたたらいの中に一度全部の野菜を投入する。
 用意したのはピーラー。刃は切れ味高くて錆びないセラミック製だ。ジャガイモやニンジンの皮を剥くならコレ。あいにく包丁だけで皮むきって器用なことはできないし。
 てきぱきと皮を剥いて、ざるに移していく。
「………」
 背後から視線を感じる。
 野菜の皮を全部剥き終わって振り返ると、サキツネが殺気だった眼差しで俺を――いや、俺が皮を剥いた野菜を凝視していた。
 それは分かるんだけど。
「何してるんだ?」
 サキツネの両手はゴツイ手枷で後ろ手に拘束されていた。両足も同様、重そうな足枷で拘束してある。手枷と足枷は、太い鎖で繋がっていた。食欲の衝動に勝てないと悟ったのか、おかしな強硬手段に出たようである。
「自己封印。気にしないで下さい」
「そか……」
 深くは追求せずに、俺は包丁を手に取った。チタン製の包丁で、普通の鉄製包丁よりも強度と切れ味に優れる。値段は四千円。うっかり衝動買いしてしまったもの。
 そのチタン包丁で、俺は手早く野菜を刻んでいった。切れ味は鋼製の包丁と大して変わらないと思う。一人暮らしも長いため、我ながら包丁の扱いも慣れたもんだ。
 やや小さめに切ったジャガイモ、ニンジン。大量のタマネギ。
 コンロの火を点け中火にしてから、大鍋にバターを放り込み、まずタマネギを投入。焦げないようにヘラで適度にかき混ぜつつ、じっくりと炒めていく。カレーの主役は肉ではなくタマネギとは誰が言った言葉だったか。
 バターとタマネギの焼ける、何とも言えぬ香りが台所に漂っていた。
「うぐぅぅ……」
 振り向くと、サキツネが口から涎を垂らし、涙を流しながら悶えている。手枷足枷の自己封印が無かったら飛び掛かってきたかもしれない。おかげで、俺も落ち着いて料理ができるというものだ。
 でも、グーグーと空腹を訴える腹の虫がちょっと五月蠅い。