「お兄さん、今日はバレンタインデーですよね。」 俺の自室にやってくるなりサキツネはそんなことを言い、振り向いた俺に向かって両手を差し出すと、尻尾を振りながら「チョコレートを所望します。」と何の臆面もなく言った。 「……………………」 数秒どんなリアクションを取るべきか考えてから、無視して取り組んでいた作業に戻る。 数秒経って俺が何か寄越すつもりも、そもそも準備すらしていないことに気付いたらしく、 ぼずっ 「――――――――――――ッ!!?」 両手を握り拳に変えて俺のレバーにぶち込んできた。見てたわけじゃないんだが、何をされたのかくらい感触と痛みで十二分に理解できる。まさかえさを与えなかったくらいでここまで痛い目に合うとは思わなかった。 余りの痛みに声も出せずに床を転げまわる。 「けち」 突然の重い一撃にうめく俺を見下ろしてそれだけ言い、サキツネはぷいとそっぽを向く。 「何してるんですか?」 俺が床をごろごろしてる音が聞こえたから様子を見に来たんだろう、ノックもせずに渚がドアを開いた。サキツネは俺にしたのと同様に両手を渚に差し出して、 「チョコレート下さい、今日はバレンタインですよね。」 「すいませんけど、私は持ってませんよ。」 明らかに不満顔を見せるサキツネだったが、しかし渚は殴らない。 どんな理由があるにせよ、渚に対してサキツネが手を上げることは今までなかった、俺のことは割と遠慮なく殴るくせに理不尽な話だが、もう慣れた。 「お兄さんもくれませんでしたし、妹さんも持ってない……この家でこんなにぞんざいに扱われたことは初めてかもしれません。」 「せい…ぜい……チョコ貰えん……程度で………ぞんざいとは……何事だ……」 ぶんなぐられた俺はこいつにぞんざいに扱われてると認識してよかろう。 それに俺は今日もこいつに飯をくれてやった、今日も今日とてこいつは俺に昼飯をたかったんだ。そして昼飯から三時間半経っていきなりバレンタインチョコを要求してきた。 「兄さん、どうせ夕食前まで暇なんですしサキツネさんを連れて洋菓子店にでも行ってあげたらいかがです? 接客は私がしてきますから。」 「絶対嫌だ何万円こいつに支払う羽目になるんだよ例え経費で落ちるとしても経費は無限じゃないんだぞ」 実妹の出した代替案としては考え得る限り最悪の案に対して早口に拒否の言葉を連ねると渚は今度は首を傾げるようなしぐさを見せてから、 「ではお兄さん、廃棄の材料でも何でもいいから何か作ってあげてください。」 「…………嫌だと言ったら?」 「サキツネさんと私がリンチ死ます。」 「おい今明らかに字の違う言い方したよな?」 なんかリンチして殺すみたいな言い方ってか殺気を感じた。これはこの二人に従ったほうが楽なのかもしれないがしかし実妹に脅されて言われるがままというのも何か問題がある気がしなくはない。 いや、俺は渚にもサキツネにも勝てないから従うしかないんだが。 「仕方ない……か。」 そう言って部屋の棚の中から隠し持っていた普通に店頭に並んでいるモノよりいくらか高い上等な小麦粉と砂糖、そしてこれまた隠れて購入していた(渚にはいつの間にかばれて黙秘を対価によく利用されていた)冷蔵庫から無塩バターと鶏卵を取り出す。 さらにチョコレートクリームに生クリーム、幾らかのフルーツ。 親がいない時のささやかな楽しみだったんだがもう仕方あるまい。 「クレープですか。」 「クレープですよ。」 どうしてこんなものの材料を隠し持ってたのかと言えば作れることが親に知れたら確実にお客様にも振る舞うことを強制されるからで、そうなったら俺はもうこれを楽しめない。 一人個人的にこんなことをするからこそ楽しいのであって仕事とは別なんだ。 サキツネの餌やりを仕事に含めるならこれも仕事のうちに入るわけだが、もうこれは家族内の行動の一種と判断している、主にペット的な意味で。 ほらあるだろう、野良猫に餌をやったら寄り付かれるようになったとかそう言うの。 それと一緒ですよ。 「………どうせなら猫耳美少女が良かったな。」 猫耳は正直好きだが狐耳は射程外だ。 「猫耳の物の怪さんとかいるんです?」 サキツネの隣に座ってクレープ待ちする渚がサキツネに訊ねた。 「けふっ。いますね、私の直接の知り合いには今のところ一人もいませんが猫耳と兎耳は割とメジャーな部類ですよ。珍しいのは熊耳とか豚耳ですね。」 「物の怪世界って広いんだな。」 熊耳とか豚耳には正直なところ全然まったく興味なんぞないんだが猫耳には興味がある。 是非ともお知り合いになりたいものだ、触らせてくれるとなおいい。 「ところで、何かげっぷみたいな音がした気がしたんだが?」 そう言って振り向くと、そこには二つあったうちの片方が空になった生クリームのパックと満足そうな顔のサキツネ、そして若干申し訳なさそうな顔の渚がいた。 「………生クリーム、どうだった?」 「高カロリーでよかったです。」 胸を張って答えるサキツネに向かってフライ返しをブン投げたが、あっさりキャッチされてしかもご丁寧に取りやすいよう投げ返された。 「生クリーム半分になったが、どうしてくれんだよ。」 「大丈夫です、まだこんなにも心強い仲間たちが。」 そう言ってサキツネは机の上を指し示すが、明らかにおかしい。 フルーツの数、半分くらいに減ってる。 牛乳、空。 チョコクリーム、吸った形跡アリ。 「お前、食っただろそれも結構大量に。」 「反省はしています!」 ふんぞり返って薄い胸を逸らしながら、なぜか自慢げにサキツネが言う。 お前はどこの元ヤン店長だ。大食い女しか共通点ないくせに。 「もうお前このまま食え。」 言いながらクレープを丸めてサキツネに差し出すと、そのままかじりついてもくもくと食べ始めた。尻尾を左右に振っているところを見ると、どうやら悪くないらしい、本当に食えれば何でもいいんだな。 「それにしても、バレンタインなんていつ知ったんだ? というかどうやって知ったんだ?」 「つい最近、街中をうろついているときに。関わりのある男からチョコを貢いでもらうことのできる日があったなんて知りませんでしたね。」 「絶対にそれはお前の勘違いだ、渚正しいバレンタインデーを教えてやれ。」 そう言って、渚に振ったのが俺の間違いだったと思うべきだろう。 「そうですサキツネさん、男性に少しお高いチョコをくれてやって三倍返しを一か月後にせびるのが正しいバレンタインの形ですよ。」 「それも絶対に違うからな。」 しかし俺のツッコミを無視してサキツネは何かを懐から取り出した。 それは誰がどう見ても高級に分類されるチョコレートだった、丁寧にラッピングされた箱にはしっかりバレンタインらしいリボンもつけられ、解いた形跡もないことを考えると確実に買ったばかりのチョコレートだろう。 「なんでそんなもん持ってるんだ。」 「後で食べるつもりで自分用に買ったものです、お値段は五千円ほどしました、これをお兄さんに差し上げます。」 呆気にとられる俺に向かいサキツネはチョコレートを差し出してくる。 なんとなく流れに任せて俺がそれを受け取ったことを確認するとサキツネは、 「お礼は三倍返しでお願いします、カレーを十リットル飲ませていただけるくらいが私としては好ましいですね、いつ受け取りに来たらいいのでしょう。」 どこから突っ込むべきなのか俺が迷っているうちに、 「三月の十四日です、ホワイトデーと言ってバレンタインのお返しをする日ですよ。」 と渚が答えてしまった。 「かしこまりました、では約束です。破ったら弾丸十発臍から飲み込ませますのでそのおつもりで。」 渚の言葉にそう答えたサキツネは、窓から飛び降りて家の外の森へと消えて行った。 カレーは、飲み物じゃないぞ。 |