第8話 スコヴィル値100万!


 ふぅと口から息が漏れる。
 ようやく書き終わった小説。随分と時間が掛ったけど、これでおしまい。あとは手直しだけだ。ま、ここからが長いんだけど、一区切りはついた。
 俺は椅子から立ち上がり、書斎部屋を横切って台所に移動する。
「おっ」
 キツネの少女が、冷蔵庫を開けていた。
 癖のある長い狐色の髪と、無愛想な黄色い瞳、どこか生意気そうな顔立ち。凹凸の少ない痩せた身体付き。服装は緑色のセーラー服に黒いオーバーニーソックス。いつも通りのサキツネ。尻尾を動かしたまま、冷蔵庫の中を眺めていた。
 俺の気配に気づいて、こちらに目を向けてくる。
「お兄さんの冷蔵庫は相変わらず碌なものがないですね」
「人の冷蔵庫漁りながら言う台詞じゃないぞ……。普通に泥棒だし、不法侵入だから」
 額を押さえながら、俺はそう告げた。
 いつの間にかやってくるのはいつものことだし、鍵かけても勝手に入ってくるし、気がつくといなくなってるし、勝手に冷蔵庫漁るし……。まあ、日当たりのいい寝室で昼寝することと食い物だけにしか興味ないようだし、残り物処分要員としては優秀だから半ば放置してるけど……。勝手に冷蔵庫漁られるってのはいい気がしない。
「主食っぽいものには手は出さないのでノープロブレム」
 無表情のまま、なぜか得意げに右手の親指をぐっと立てる。
 言われてみれば、残り物とかそういうものはあっさり食ってるようだけど。俺が主食として食べようとしている肉とか野菜には、基本的には手を出さないな。サキツネなりの矜持かなんだろう。時々食べてるけど。
「だからって、調味料とか舐め……って!」
 言いかけて、俺は言葉を止めた。
 サキツネは冷蔵庫の奥から取り出した小さな瓶の蓋を開けている。百五十ミリリットル入りの小瓶で、赤いラベルには横文字が書かれていた。中身は赤黒いソース。
「それはヤメろッ!」
 叫んだ時には既に手遅れ。
 瓶の蓋を開けたサキツネが、中身の赤いソースを躊躇無くラッパ飲みしていた。普段どういう食生活しているのか知らんけど、こいつは醤油や酢なんかの液体調味料をジュースのように一気飲みすることが多々ある。
 醤油や酢なら一時的に気分悪くなるだけで済むんだけど……。普通は済まないけど、そこは本人曰く、頑丈だから大丈夫らしい。
「!」
 サキツネの動きが止まった。頑丈と言っても、これは無理だろ。
 狐耳がぴんと立ち、尻尾の毛が爆ぜるように逆立つ。硬直した手や顔に、じっとりと脂汗が滲んでいた。身体が小刻みに震え、見開かれた黄色い目から涙が流れる。手足や顔が見る間に赤くなっていった。
 俺は短く告げる。
「自業自得だ。諦めろ」
「&#ー◎∀……! ωΔ`Д■……!」
 俺の呟きを引き金にしたように、意味不明な叫び声を上げてサキツネが跳び上がった。床から一メートルほど。さながら前衛的オブジェのように無茶苦茶に手足と身体をよじりながら、顔面から床に落ちる。だが、痛みを感じている余裕すらなく、その場でじたばたとのたうち回っていた。まるで溺れたように。
 七転八倒とは多分こういう状態を表現するのだろう。
 酷く冷めた気分で、俺は他人事のようにサキツネを眺めていた。
 空の小瓶が床を転がっている。
「……! ………ッッ! ―――ッゥ!」
 声にならない絶叫とともに仰け反り、両手両足でフローリングの床にブリッジ。そのまま昆虫のように動き始めた。どうも自分が何をしているかも分かっていないっぽい。両目から涙を流したまま、ブリッジ体勢で台所を走り回っているサキツネ。
 ひどくシュールな光景だなぁ。
「大丈夫か……?」
 声をかけるが、返事はない。
 今こいつが口にしたのはデスソース。タバスコの五百倍以上の辛さがある超激辛ソースだ。バラエティ番組なんかで時々ネタにされることもある。その辛さは、もはや辛いというレベルではなく――痛い。それを一気飲みすれば、当然の結果だろう。
 俺も処分に困って冷蔵庫の奥に放り込んでたんだけど、処分の手間は省けたかな?
 奇っ怪な生物のように走り回っていたサキツネが、突如として跳ね起きた。
「……み、みぅ! みぅッ!」
 言葉にならない言葉を発しながら、水道へと齧り付く。蛇口を咥えて――いや蛇口に噛み付いて、バルブを全開にした。だが、水は出ない。
「水道工事するってんで今は断水中だ。四時くらいまで水は出ないよ」
 ガ―――ン!
 サキツネの背景にそんな文字が浮かんだように見えた。狐耳と尻尾を立て、涙やら鼻水やら涎やら、顔から色々な液体を流した物凄い形相で俺を凝視している。
 時計は三時前を示していた。最低一時間待たないと水は出てこない。
 間髪容れず我に返り、サキツネは冷蔵庫を開けて中を確認。
「!」
「待て! それもマズ……!」
 俺の静止も聞かず、サキツネは透明な瓶の蓋をむしり取り、中身を一気に口へと流し込んだ。見慣れない文字の書かれた明らかに酒瓶と分かるガラス瓶。
 ボフッ!
 火、吹いた。
 いやいやいや、見間違いだよ、な……? さすがに。ウォトカ飲んだからって、漫画みたいに火吹くことはないはず。サキツネは人外だから、案外火吹けるかも。
「はぅ……」
 空瓶を取り落とし、サキツネは糸が切れたように仰向けに倒れた。
 処分に困った貰い物のひとつ、ロシアの蒸留酒ウォトカ。強い酒の代名詞。
 デスソース一気飲みのせいで口から胃まで火傷状態のところに、そんなアルコール強い酒流し込んだら結果は推して知るべし。
「……ッ! ……ッ」
 白目を剥いたまま床に倒れているサキツネ。手足や狐耳、尻尾が、時折思い出したように痙攣している。もはやのたうち回る力も残っていないらしい。半開きの口から半透明の霊体っぽいものが漏れ出して、脳天気な顔で俺に手振ってるのは……
 錯覚だと思う。多分。
「冷凍庫に氷とアイスはあるけど」
 俺の台詞に、霊体が口の中へと引っ込んだ。目に黄色い光彩が戻る。
 バネ仕掛けのオモチャのように、サキツネが勢いよく跳ね起きた。
 冷凍庫の扉を開け、尻尾を激しく振りながら、中のものを手当たり次第に口へと放り込んでいく。製氷機で作った四角い氷や古いアイスクリーム、水差しに入れるための大きな氷、その他冷凍食品。
 それらをガリゴリと音を立てて噛み砕いていた。
「凄い顎力……」
 ふと気になって、蛇口を見ると。
 歯形付いてるし……。
 火事場の馬鹿力とはいえ、ステンレス製のパイプに歯形付けるとは。もしこの力で噛み付かれたら、普通に肉食い千切られるかも。いや、さすが人外。
 目を戻すと、サキツネは冷凍庫内部に貼り付いた霜を手で毟り取って、口に放り込んでいた。氷やアイス、冷凍食品関係は全部食べ尽くしたらしい。
 その動きがぴたりと止まった。あ、来たか。
「――ッ! ォ、おおお、おぉぉォォ……!」
 両手でこめかみを押さえて、サキツネがうずくまる。
 冷たいものを一気に食べると起こる、キーン現象。アイスクリーム頭痛という正式な医学用語があると最近知った。冷たいもので喉が冷やされて、体温維持のため血管を拡張した結果起こるものらしい。
 歯を食いしばり、小刻みに尻尾を跳ねさせながら頭痛に耐えている。
 俺は一度書斎に戻り、水差しを持って戻ってきた。二リットル入りのプラスチック製水差し。少なく見積もっても一リットルは残っている。断水になると知っていたので、あらかじめ自分の飲む水は確保しておいたのだ。
 サキツネは、まだアイスクリーム頭痛に呻いている。
 俺は持ってきた水差しを差し出しながら、声をかけた。
「水持ってきたぞ」
「お兄はン、遅ひぃ……」
 本気で泣きながら、サキツネは力なく手を伸ばしてくる。


 テーブルに向かい合って座っている俺とサキツネ。
「あー」
 サキツネが口を大きく開ける。
 俺はペンライトでその咥内を照らしていた。耳鼻咽喉科の医師でもない俺に、症状や治療法は分からない。だが、一応見ておかないとマズいだろう。
 なんというか……素人目にも口が真っ赤に腫れているのが分かった。
「火傷だな……。治るまでは刺激物食べられないし、味覚も全滅だろ、多分」
 言いながら、俺はポケットから取り出したミルクキャンディーをサキツネの口に放り込んだ。この飴は時折近所のおばちゃんが好意でくれるもの。だが、俺は飴が苦手なので、貰うだけで自分の口に入れることはない。
 サキツネは口を閉じてもごもごと飴を舐めるが、
「味分からない……」
 眉根を寄せつつ、戸惑ったように尻尾を動かす。
 辛さとは口が感じる痛み。痛みを受けるということは、その部分の組織が破損しているということた。唐辛子程度ならともかく、デスソースを直撃した咥内組織はぼろぼろだろう。味覚は全滅に等しいし、感覚そのものも生きているか怪しい。
「デスソース一気飲みしたんだから当然だって……。知合いに医者がいたら診て貰った方がいいぞ。変な感染症起こすかもしれないし」
「うー」
 飴を噛み砕いて呑み込んでから、サキツネは不服そうに俺を睨んでくる。
 だが、どうしようもない。しばらくは何を食べても味を感じないし、刺激物は論外。火傷の症状が治るまで、冷ましたおかゆなどで我慢するしかないだろう。胃腸もボロボロになっている可能性が高いので、何も食べないのが賢明である。
「俺を睨んでもどうにもならないだろ。自業自得なんだから」
「むぅ」
 俺の正論に狐耳を伏せてから、サキツネは右手を伸ばした。
 テーブルに置いてあった醤油差しを掴み、蓋を取ってから中身を口へと流し込む。意識的な行動ではなく、ただの条件反射的なものなのだろう。手近にあるものを口に入れてしまうという行為は。自覚が無いというのは怖ろしい。
 びくんとサキツネの身体が大きく跳ねた。黄色い目が大きく見開かれる。
 火傷状態の口に醤油放り込んで無事なわけもなく。
「ふぉオオぉぉ……ォォォッ……!」
 両手で口を押さえたまま、サキツネは奇妙な悲鳴を上げた。狐耳がぴんと立ち、尻尾の毛が爆ぜるように逆立っている。身を捩りながらぴくぴくと全身を痙攣させ、両目から滝涙を流していた。そりゃそーだろ。
 空の醤油差しがテーブルを転がる。
「みず……! みずッ! お兄さん……みずッ!」
「水はさっき全部飲んじゃったり、氷もさっき全部舐めちゃったし……。断水が終わるまで、あと一時間くらいかかるから、頑張って耐えろ」
 俺はそっとサキツネの肩に手を乗せ、優しく告げた。水はもうないし、冷凍庫の氷類もない。あいにくこの辺りには、コンビニもないし、自販機も無い。
「うぅぅ……!」
 テーブルに突っ伏したまま、サキツネはただ苦悶の呻き声を上げていた。



 三日後、サキツネが冷蔵庫にあった酢漬けの残りを普通に食っていたので、口の炎症は治ったっぽい。数日で治るようなものじゃないだろうけど。
 本当に頑丈なヤツだなぁ。