第10話 酸っぱいニシンの缶詰 後編


 というわけで、町外れの空き地にやってきました。
 ランチシートの上に正座したいサキツネ。目の前に置かれたのは、件のシュールストレミング缶詰に、食パンとポテトサラダ、チーズを持ってきている。向こうでは、パンなどと一緒に食べるらしい。あいにく日本に現地のパンやポテトがあるわけでもなく、出来合のもので代用している。一応、水を入れた水筒も用意しておいた。
「お兄さん……なぜ?」
 サキツネが俺を見つめる。
 俺は二十メートルほど離れた風上に立ち、サキツネを眺めていた。缶切りを持ったまま、不思議そうにしている狐の少女。
「気にせず食べなさい」
 笑顔のままそう告げる。
 ……近くにいるだけで臭うんだもん。
 深くは考えないことにしたのか、サキツネは缶詰を開けることにしたようだ。左手に缶詰、右手に缶切りを持っている。缶詰を少し傾けて、缶切りを差すのが正式スタイルらしい。神妙な面持ちで丸くなった上面に缶切りを突き立てた。
 シュー。
「ッッ!」
 喉を引きつらせ、サキツネが仰け反る。
 缶切りを刺した瞬間、空気の抜ける音が聞こえた。そして、吹き出してくる中身の臭気本体。それを間近で嗅いだサキツネは、全身の毛を逆立てたまま狐耳と尻尾を伸ばして反り返っている。ひくひくと身体が痙攣していた。
 そんなに凄いのか、この臭いは……。離れてるこっちにもそこはかとなく漂ってくることを考えると、直撃したサキツネは凄いことになってるんだろうな。狐だけあって普通の人間よりも鼻が効くようだし。
 缶詰を持ったまま、サキツネがおもむろに立ち上がり――
「お兄さんッ――!」
 なぜか俺の方に走ってきた。必死の形相で。
 サキツネが近づいてくるにつれて、形容しがたい臭気が漂ってくる。おそらく錯覚だろうが、それははっきりと見えた。臭気が広がる空間そのものが。それ自体がおぞましい忌域であるような臭いの結界。
「こっち来んなァァァ!」
 生命の危機っぽいものに、俺は全速力で逃げ出した。


 三分後。
「うー」
 五十メートルほど離れた位置から、俺はサキツネを眺めていた。
 殴られた頬をさすりながら、サキツネが缶詰を見つめている。
「疲れた……」
 作家という仕事から来る体力低下を思い知らされるわ――
 なんかもー、人生の中で一番必死に走ったようような気がする。子供の頃に野良犬に追い掛けられた時よりも必死だっただろう。ついでに、女の子を本気で殴ったのも生涯で初めてだと思う。でも、後悔も反省もしていないッ。
「責任持って食うって尋ねたら、自信満々に答えたんだから、責任持って食えよー」
 励ましの言葉に、サキツネは再び缶切りを手に取った。
 さきほど開けた切れ目に缶切りを突き立て、キコキコと金属音を立てながら缶詰を開けていく。開けながら目から涙が流れているけど、そこは自己責任だ。
 それにしても、空き地でランチシートに座ったまま、缶詰を開けている狐の少女。恐ろしくシュールな光景だな。シュールストレミングだけに光景もシュール……なんて。
 缶詰の蓋が完全に開いた。
 遠くてよく見えないけど、不気味な色合いの中身が詰まっている。
「どうだー?」
「臭い……」
 俺の問いかけに、涙と鼻水を流しながらそう答えてきた。そりゃそうだ。
 いつでも逃げ出せるように腰を引きながら、俺は続けて声を掛けた。
「頑張れ」
「頑張る……」
 サキツネは割り箸で中身のニシンを取り出し、食パンに乗せる。続いて、ポテトサラダとチーズを乗っけた。えらく適当な料理だが、この臭気が無ければ、手抜き料理として食えたかもしれない。発酵魚だしな。
 ニシンとポテトサラダ、チーズを乗せた食パンを折り曲げ、サキツネが口を開けた。パンの半分を口に入れ、噛み千切り、もごもごと咀嚼し――
「うぐ……」
 一回嘔吐いた。涙を流し、口を押さえるサキツネ。
 あの強烈な臭いが口内を直撃し、身体が拒否反応を示すのだろう。発酵食品の臭いは強烈だからな。俺も納豆口に入れられたら、似たような反応するだろうし。こいつは、世界一強烈とも言われる缶詰だ。
「うぅ……」
 遠目に見えるほど震え、目から涙を流しながら、サキツネは口の中身を呑み込んだ。水筒の蓋を開けて、水を飲んでいる。ぴくぴくと痙攣している狐耳と尻尾。
 サキツネが残った半分を口に入れ、何度か咀嚼してから呑み込む。しかし、一回目ほどの抵抗は無いようだった。涙を流してはいるが、それほど苦しそうではない。
「旨いか……?」
 好奇心半分、恐怖心半分に俺は尋ねる。案外あっさりと食べているけど、味はどうなんだろうか? 臭いが凄いのは分かるけど。
 サキツネは俺に顔を向けた。
「それなりに。でも酸っぱい」
 酸っぱいニシンだしな。
 でも、食えるのか。凄いなー……。全然羨ましいとは思わないけど。
 俺が感心しているうちに、サキツネは新しい食パンを取り出し、ニシンを乗っけた。一緒にポテトサラダとチーズを乗せてから、さっきと同じように丸めて食べ始める。刺激臭に涙を流しながらも、食べる勢いは早くなっていた。
「慣れたんだな」
 その適応力の速さに感心する俺。
 うれしそうにぱたぱたと尻尾を振りながら、サキツネはパンに挟んだニシンをもしゃもしゃと食べていた。少し食べただけで完全に慣れたようである。
 やがて、食パンとポテトサラダ、チーズも無くなり、缶詰を左手に持って箸で摘みだしたニシンを直接食い始める。調味料だろうと半分腐っていようと、デスソースですら食べられる胃腸消化器系も凄いが、何でも食べられる味覚系統も凄いんだな。
 改めて俺はサキツネの凄さを噛み締めていた。
 缶詰のニシンを食べ終わり、ズズスと音を立てて汁を飲み干してから、サキツネは空っぽになった缶を置いた。小さくゲップをしてから、
「ごちそうさまでした」
 空の缶に両手を合わせて、頭を下げる。
 それからてきぱきと周囲のパックや水筒などを手提げ袋に片付けてから、その場に立ち上がった。革靴を履いてから、ランチシートを畳み、それも手提げに放り込む。その場の片付けは終了。
 手提げを持ったまま、俺の方に歩いてくるサキツネ。
「うッ!」
 漂う臭気に俺は仰け反った。
 当たり前だが、一缶まるごと食えばその臭いは嫌でも身体に染み付く。今のサキツネは全身から凄まじい悪臭を放っていた。本人は臭いに慣れたようだけど、あいにく一般人の俺はその臭いにはまだ慣れていない。
 キラリとサキツネの黄色い瞳が光ったように見えた。口元に浮かぶ薄い笑み。
 嫌な予感……。
 それを証明するように、サキツネがいきなり俺の方へと走り出す。黄色い瞳をきらきらと輝かせながら。
「こっち来るなァァァ!」
 迫り来る最臭兵器に、俺は悲鳴を上げて逃げ出した。
 だが、サキツネの方が脚が速い! 万年運動不足みたいな作家と、やたら体力はありそうな狐の少女。その脚力には圧倒的な格差があった。
 後ろから迫ってくる臭いがはっきりと分かる。
 このままじゃ、追いつかれる!
 プチッ。
 俺の脳内で何かが切れた。どうやら人間のリミッターには二段階あるらしい。そんな事を意識の隅っこで考えながら、右足で地面を蹴って勢いよく振り向く。反動に骨や関節が軋んでいたが、気合いで無視。やたら楽しそうな表情で走っているサキツネ。
 右手を握り締め、腕全体に力を込めながら、俺は叫んだ。
「雷犂熱刀ォ!」
「が、はッ……!」
 鈍い悲鳴が、サキツネの口から漏れる。
 全力で振り抜かれた右腕が、サキツネの喉にめり込んだ。相手の喉に体重を乗せた腕刀を叩き込むという危険な攻撃。それがカウンターで決まったのだ。無事なわけがない。
 走っていた勢いのままに、サキツネの脚が宙に浮かぶ。大きく開かれた口から、唾が飛ぶのが見えた。焦点の外れた黄色い瞳が虚空を泳ぐ。
「オオオリャアアァァァ!」
 咆哮とともに、俺は腕を振り抜いた。
 サキツネが背中から倒れる。不意打ちのカウンターから意識が半分どこかに飛んでいた状態で、受け身も取れずに頭から地面に叩き付けられた。それほど重くはないだろうが、自分の全体重を乗せて。
 やったこっちがマズいかなーと思うほどのクリティカルヒット。
「ウ、イィィィィィィィ!」
 右腕を高々と掲げ、勝ち名乗りを上げてから。
 俺は自宅めがけて全速力で走り出した。


 後日、部屋の玄関に洗った空き缶と荷物が届いたのを見るに、サキツネは無事だったらしい。自分でも頑丈だって自慢してたしな。