第14話 カレーライスを食べよう 後編


 奮闘の結果、サキツネは自分を戒めていた枷を自力で壊した。引き千切ったと表現する方が正しいかもしれない。留め具部分から壊れた枷が床に落ちている。
 椅子に座ったサキツネ。無表情のまま尻尾をばたばたと振っている。
 テーブルには大ジョッキに入った氷水が置かれていた。カレーにはラッシーとかが合うかもしれないけど、日本式カレーライスには氷水。これは譲れない。
「速く……カレーを……!」
 薄い汗を滲ませながら、サキツネが苦しげに呻いていた。
「待ってなさい」
 そう宥めて、俺はお盆のような大皿にご飯をよそっていく。
 普通、カレーライス一人前に使うご飯は一合ほど。それを今回は二升。大人数用の大型電子炊飯器から、しゃもじを使って力任せに移動させる。"よそう"という月並みな表現よりも、"移動"という表現が正しい。
 でも、炊飯器の半分くらいしか出せなかった。それでも一升分くらいあるけど。
「うおぉ……!」
 サキツネが感嘆の声を上げる。黄色い両目を見開き、口から涎を垂らしていた。
 大皿に大盛りにされたご飯。皿の重量も加わって、かなり重い。一度調理台に置いてから、鍋のカレーをかけていく。お玉ですくっていたら埒が明かないので、きれいに洗った小鍋で一気にカレーを移動させた。"よそう"という月並みな、以下略。
 パック入り福神漬けを袋ごと開いて、カレーライスの横に添える。
「これで完成だ」
 大皿に盛られた超特盛りカレーライス。およそ十人前。推定重量四キログラム。見た目通りかなり重く、片手では持ち上げられない。ここまでくるともはや料理じゃない。
 それを両手で抱えて、サキツネの前に置く。
「おおおお!」
 眼を輝かせながら、サキツネは狐耳と尻尾を激しく動かしていた。周りの空気に星が輝いているのは俺の目の錯覚だろうか? 今日これを食べるために一週間断食していたらしいからな、喜びはひとしおだろう。
 さて、俺は自分のカレーを食べよう。
 普通の皿にご飯をよそってから、普通のお玉でカレーをかける。福神漬けをスプーン一杯くらい添えておいまい。こちらは、大きさも量も普通のカレーライスだ。
 自分のカレーを持ってテーブルに戻ると。
「ぐぐくく……!」
 サキツネが身体を捻っていた。椅子に座ったまま、上半身を百八十度捻りつつ、両手を身体へと巻き付けている。人型生物の骨格的に無理っぽい姿勢のような気もするけど、大丈夫なのだろう。実際やってるし。
 口から涎を垂らしたまま、脂汗を流している。でも、視線はカレーを睨んだまま。
「食べないのか?」
「"いただきます"を……! 食事にはそれが必要、だ……!」
 俺の問いに、擦れた声で断言してきた。
 なるほど。それで大量のカレーライスを前に耐えているのか、律儀なヤツめ。この前衛芸術っぽいポーズは禁断症状のようなものらしい。放っておくと逆立ちとかも始めそうなので――それはそれで見てみたい気もする。
 でも、焦らすと物理的に危険なので、俺はさっさと椅子に座り、
「いただきます」
「いただき――ます!」
 一瞬で姿勢を正し、両手を合わせて、宣言する。
 間髪容れず両手でスプーンを握るサキツネ。
 ズバババババッ!
 そんな擬音とともに、凄まじい速度でカレーを食べ始めた。ちょっとした小山のように盛られたカレーライスを、二本のスプーンで切り崩していく。
「おお、すげ」
 普通に食べながら、俺は単純に驚いた。
 目に見える速度で減っていくカレーライス。両手で握ったスプーンでご飯をよそい、口に放り込み、そのまま噛まずに飲み込んでいる。右手だけで行う掬う動作を両手で行っているおかげか、ただでさえ並外れた勢いがさらに速いものとなっている。
 尻尾を動かしながらカレーライスを貪る姿は、さながら飢えた獣のような。
 ……飢えた獣の方がまだ大人しいかな?
 しかし相手は一升カレーライス。さすがに簡単には無くならない。
 それでも、三分経たずに半分食べ終えていた。
「ふぅ」
 サキツネは一度スプーンを起き、傍らの大ジョッキを掴んだ。いったん休憩らしい。中に入っている氷水を一気に飲み干してから、さらに氷を噛み砕く。
「まことに至福……」
 パリポリと福神漬けを囓りながら、サキツネは息を吐き出した。さっきまで纏っていた餓えた獣のオーラは消えて、普段の不思議系狐少女に戻っている。
「美味いか?」
 普通にカレーを食べつつ、俺は尋ねた。
 サキツネの食事。食べるというか、飲むというか、放り込むというか、流し込むというか――やっぱり移動だな、うん。あんな早食いで味分かるか怪しいんだけど。
「とっても美味しいでございます」
 微妙におかしな日本語で答えるサキツネ。
 今度は右手でスプーンを掴み、食事を再開する。前半の速さは消えているけど、それでも十分に速い。俺はまだ一合カレーライスの半分も食べ終わっていないのに。
「それで味分かるのか?」
「カレーは飲み物です」
 眉を内側に傾け、サキツネが断言した。得意げに。
 お前はウガンダ・トラさんか……。
 鶏肉うまー。


 二皿目突入。炊飯器の残り全部+カレーの残り全部。
 スプーンは効率悪いと気付いたのか、山盛りカレーライスをレンゲで頬張っている。一度しゃもじとお玉も試したが、どっちも食べにくかったらしい。掴みやすく大きさも手頃なレンゲに落ち着いたようだ。
 今度はトッピングを加えている。生卵、マヨネーズ、トンカツの残り、ピザ用チーズ、缶詰のコーン、缶詰のツナ、醤油。冷蔵庫にあったものを無節操に乗せていた。傍らに置いてあるのは、水ではなく牛乳1Lパック。
 食べる勢いは、ちょっと早食いくらいに落ち着いている。
「美味いか……それ?」
「なかなか」
 訝る俺にサキツネは醤油混ぜカレーを食べながら頷いた。
 カレーに醤油ってどうだろうな? 美味しいとは聞くけど、俺は試した事はない。醤油かけるなら、隠し味として入れるし。うーん……
「その醤油掛かってる辺り、少し食べさせてくれないか?」
 そう声をかけ、俺は醤油の掛かったカレーにスプーンを向けた。他人が食べているなら一口貰ってみよう。美味しかったら自分でも試すし、不味かったら作らないし。
 しかし、サキツネは大皿を守るように掴み、頬を赤くして目を逸らす。
「えっち」
「何でだよ……!」
 俺のツッコミには構わず。
 サキツネは狐耳をぱたりと動かした。何か思い付いたらしい。明後日に向いていた黄色い目が、一度食べかけのカレーに向けられる。それから俺の方に向けられた。
「一晩寝かせたカレーが美味しいのは何でだろう?」
「んー?」
 スプーンを引っ込め、俺はコップの水を一口飲んだ。
「味が具材に染みこむからだよ。作った後は野菜とかにカレー成分が完全に染みこまないけど、一晩冷やすと中まで染みこむらしい。あとは油の粒が揃うとか」
 この味の染込み云々は、半ば眉唾とも言われる。味が全体的に混じるというのはあるらしいが、実際に味が変わる理由はもっと直接的だ。
「でも、大きな変化は、粘度が高くなって舌に留まるとか、冷えて舌が熱さ以外の味覚を感じるようになるかららしい。舌触りの変化だな」
 ぱんぱんぱんぱん……
 サキツネはその場でテーブルの縁を叩き、
「12へぇ」
「ちょっと低くないか?」


 およそ二升約六キログラムのご飯と、大鍋一杯のカレー、さらに氷水と牛乳をおよそ三リットル。単純計算で十数キログラムの食事を三十分程度で全て腹に収め、サキツネは椅子に背を預けていた。
「けふ……」
「よく食えたな……」
 満足げなサキツネの姿に、俺はただ驚くだけだった。
 最初に見たときは窶れ気味だった身体も、今はふっくらとしている。大きく膨らんだお腹。セーラー服とスカートの間からへそが見えているけど、正直色気は無い。
 サキツネは両手を合わせ、静かに呟いた。
「ごちそうさまでした」








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